2009年01月20日

「風雪とともに 開拓地耕英」を観る(第2回)

前回の続きです。
ちなみに紺色の部分は僕の勝手な補足です。


『耕野(こうや)村とは、現在の伊具郡丸森町耕野である。』
耕野に親戚がいるんで、以前行った事があります。阿武隈川と山に挟まれた風光明媚な所です。タケノコが美味しかったですね。

『当時の耕野村の村長の任にあった八島考二氏は、狭い耕野村から満州への分村を考えていた。』
満州へ移民は人口増加や農地不足等の諸問題を解決しようとする政府の国策によって強力に推進されました。
村を分けるような形で集団移民する「分村」が耕野村でも計画されました。


『なぜならこの地域には三反百姓が多く、次男、三男の働き口がなく、一家でも食うに足りないという有様だったからである。』
まさにウチの母方の祖父はこの耕野村出身で次男でした。そして、満州開拓にも行きました。

『満州へ移民団を送るには、団長の資格を有した者が必要であるなど、問題も多かったが、何とか解決を図り、次々と満州へ開拓団を送り出した。』
団長になるのには幹部訓練を受ける必要がありました。昭和15年、耕野村より第一次開拓団20名が先遣隊として渡満。17年に栗原郡文字村(現栗原市)の14名と一緒に第二次開拓団が渡満。この時の団長は駒の湯温泉の経営者・菅原兵三郎氏を父に持つ菅原兵市氏でした。

『開拓団の戸数も百戸を超えた。』
満州は食べ物が豊富だったらしいです。しかも満州では、満州人が開墾した所にそのまま入植し、開墾するのでもトラクターなど機械が使えたようです。

『しかし、昭和20年敗戦となり、それとともに第二の故郷を捨て、帰国せざる負えなくなってしまった。ところが、帰国はしたものの行き場所がなかった。』
ソ連の突然の侵攻により、命からがら日本に戻ってきます。その途中で多くの団員を失います。
映像では触れられていませんが、実際に引揚げ時の体験談を聞くと涙が止まりません。


『その団員を耕野村だけで収容しきれなかったのである。そこで八島考二氏の私有地を開放し入植させたが、残りの団員をどうするかが、思案のしどころだった。』

次回に続く…

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プロフィール
金澤大輔
金澤大輔
東京在住のしがない会社員。
小学校時代を耕英の山の中で過ごしました。
実家は2008年の岩手・宮城内陸地震により半壊し、避難指示で仮設住宅に避難していましたが、現在は、おかげ様で元の家に戻る事ができました。ありがとうございます。

この栗おやじというキャラクターを通じて、「岩手・宮城内陸地震があった事」「復興に向けて頑張っているおやじ(人)達がいる事」を伝えていきたいと思います。

Daisuke Kanazawa

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